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lynnosukeのブログ

愛なんてそこじゃなくて生きてるだけじゃ足りなくて

生(せい)の速度

平成十四年 三月 二十五日 わたくしの母はベッドの中で亡くなった。四十八歳、脳溢血。死亡推定時刻はわたくしを産み落とした時刻とほぼ同時刻。その日に限って夕食後に空腹だったのか母は丼でご飯を食べたという。その頃、お誕生日おめでとうの着信履歴があったのだがわたくしが気づいた頃には寝ている時間だと思いかけ直さなかったのが後悔になった。脳溢血なので結果、嘔吐していたがいつだって産みの苦しみは空腹なのかもしれない。母はアルコール依存症から鬱病アルコール中毒、大量の薬による躁鬱病と成り上がっていたが精神薬による副産物だったと思う。そんな母はとにかく両親に迷惑をかけてきた。祖父の兄が営む石川県片山津の呉服屋に就職をしお金を貯め免許を取得し事故を起こした。以来、彼女は恐怖から免許を更新する事はなかった。母の両親は会社を経営しており母は札幌にいる育ての母の様な女性を慕っていた。わたくしが子どもの頃、母の家出に付き合わされ札幌に逃げるも祖父達に連れ戻される。わたくしが産まれる前は同じアパートのヤクザ者の女性と函館まで逃げ危うく組の女になりそうなところをわたくしの父が迎えに行き話を納めたりと。祖父は刺青が入っていた方なのでその筋では話が早く、おじきの所の娘さんをさらってしまった。と、逆詫びである。とにもかくにもウイスキーを煽ってはいなくなり呑みたさから二階の窓から出て行ったり冬場に道路で寝ているところを救急車で帰宅をしたりと本当に子ども心に嫌であった。アルコール中毒者というのは刃物沙汰が多く血まみれの母をベッドの間から父と引き上げ父が湯船で身体を洗い母は即入院である。その血に染まった浴槽をまだ九歳のわたくしは洗った。幻覚症状もあり呑んでは逃げるの繰り返し。逃げたかったのではなく探して欲しかったのだと思う。そうして両親は離婚をし父方の実家がある十勝に十歳で越してきた。わたくしは学校で次第にいじめに遭っていたが母には言えなかった。学校が休みになると苫小牧の母に会いに一人特急に乗った。会いたさ半分で。行けば嬉しさから呑む、わたくしが帰るとなると寂しさから呑む。娘がいないと探し回る。可哀想な人であった。晩年は難病を発病し蝕まばれた身体でもたまに呑んでいた。それでもわたくしは呑ませ帰りにはお小遣いを置いた。老眼だと言った時には大きなテレビとビデオデッキを買ってあげた。欲しがる物を買ってあげた。わたくしが後悔をしたくはなかったしさせたくはなかったからである。そんな母はわたくしの誕生日に亡くなった。六七日はこどもの日、四十九日は母の日。棺に入れたお金はお地蔵さんの様な形になりお腹の所には小さな子どもの様な形になっていた。いつまでも一緒にいたかったのかもしれない。わたくしの両親はご飯屋を営んでおり祖母に育てられたので祖母を母さんと呼んでいる。母さんの誕生日は二月二十五日なので月命日には母さんと二人やるせない気持ちになる。母の訃報を聞き苫小牧まで泣きながら行ったあの日、祖父も母さんも正気を失っていた。母は難病の事を自分の両親には隠していた。祖父はポツリと、いつも逃げられてな…と、呟いた。。死斑で痣だらけの母をわたくしは痣だらけでしょ、親より先に亡くなるのなんて親不孝でしょ。と、さすった。冷たくなった母の身体は単なる冷えた肉の塊であった。数日前に染めてあげた綺麗な髪の毛に死に化粧。三日間、一人っ子のわたくしは冷たくなった母に寄り添った。父はわたくしが十五歳の時に事故で頸椎損傷になっていたので母の最期を見る事はできなかった。総てが終わった。と、母の側にいた時、白く霞んだ柱状の物が母の肉体から母の部屋に動くのを見た。不思議な経験であったが母の弟さんは階段を昇る足音を聞いた。と、言った。そんな否が応でも繰り返す母の命日とわたくしの誕生日。わたくしもお酒が好きなので蛙の子は蛙として乾杯をする。生きる意味を問いながら。
暗いわ!
https://youtu.be/-EN9iecLfmw