lynnosukeのブログ

愛なんてそこじゃなくて生きてるだけじゃ足りなくて

わたくしはニーチェを読んでから人の生とは何かと解らなくなり今まで生きている。そこには臓器提供の問題があるからである。親戚の伯母は意識不明のまま数年、生きていた。様々な投与により白髪であった頭髪が黒々とした程である献体。宗教上、性交を戒とする宗教もあれば所謂セックス教壇もある。何れにせよ輪廻転生があるのならある一定数の積み重ねという生が生じる。過去に破壊をすれば次には創造を与えられる繰り返しを。個人が孤立をしていてもそれは1社会の中である。これが森の中ではどうであろう。「誰も居ない森の中で木が倒れた。そこに音はあったのか?」この哲学的な言葉の様に孤立をしている様で最終地点の死には社会が絡む。死刑制度が廃止されつつある国が増えているのだが刑務所がまるで老人施設化しているのも知っている。もし愛する人が殺められたのならわたくしは迷わず死刑執行ではなく無期懲役で毎日、罪に苛まれて苦しんでもらいたいと考えていたのだが近年の刑務所というのは横臥をする寝床の目の高さにテレビが設置されていたり電気ポットまで備え付けられていた。これを尊厳の象徴だとしたら何が悪なのか訳が分からなくなる。というのも死刑と安楽死を考えると安楽死を訴える場合の方が身体的精神的に追い込まれているからであり身体機能を奪われ痛みを伴っているとする。誤嚥でチューブから栄養を摂取し排出や会話が自力では出来ない。医療刑務所と変わらないのではないのかと。或いは在宅介護者の方が孤独だと。刑務所の生活は規律正しく運動や少しの娯楽もある。これは書物から得た知識ではなくわたくしの周囲の友人知人が毎年一人の割合で収監をされていたからであり逆に踏み込んで書きにくいのも事実である。三食の食事におやつ、職業訓練。これは出所後は下より賠償金の問題もある。それらを総て身に付け新たな人生を始める。そこには個人の持って産まれた環境下もあるが突然の病苦に見舞われた人間からすると本末転倒なのも理解をしている。しかしながらそこでバラバラ殺人の異常性欲は頭を傾げる。例えば麻原氏は性欲を禁じていたが自らは奔放であった。わたくしは地下鉄サリン事件の当時、友人宅に泊まりに行っていた高校生であった。目を覚ますと友人のEちゃんが早くから起きていたらしくわたくしに言った。りんちゃん!サリンとか言う薬品で大変な事になってるって!あぁ、遂に科学兵器の時代になったか。高度成長期やバブル、貧困の差よりも人々が浮かれる背景には必ず欲望が渦巻くのである。ならば何故、煩悩を捨てないのかと。欲にまみれた世界にも居た。汚い男性の征服欲だけの世界。そんな10代から9.11をスカパーで観た。世情のショックは大きかった。