lynnosukeのブログ

愛なんてそこじゃなくて生きてるだけじゃ足りなくて

関わり

先週、友人の入院先にもついにコロナヴィールス感染者の受け入れ先になった。気になっていたので夏ぶりに友人にお電話をした。外界をシャットアウトしている友人は知らずかなり驚いていた。例えばわたくしが窓口に差し入れを持って行くとする。入口で靴裏の消毒をし飛沫感染防止のビニールが下げられているのも知らなかった。そして今日、病院がある町は一部クラスター認定をされ閉鎖される施設も続いた。わたくしの予想通りの展開であった。電話口での友人は誰とも会話も無く長い一日を一人で過ごしているのでやはり会話の初めは元気がない。それよりも言葉の結果的に諦めていると必ず言う様になった。それらはわたくしと話しをしているうちに和らぐのだが電話を切った後に寂しさが押し寄せると思い中々、連絡を躊躇してしまうのだが健常者とは違うのでわたくしは自分の痛みになりに定期的に差し入れを運びアクションを起こしていた。それが今では自分の身体が昨年夏に激しい痛みに病院へ駆け込んだ頃の痛みに似ていて出かけられない。それどころかこういった状況に飲食の差し入れは出来ないのかもしれないと思っているのだが友人は差し入れを楽しみに待っている。友人にとっては唯一の女友達であり長い付き合いである。王子さんに差し入れを頼みたいがお互いに感染者が増えている町へ、ましてや病院へ行くのには躊躇ってしまう。部屋から出ていないわたくしに感染リスクがあるとすれば出入りをしている王子さんが原因物質である。そして何よりもショックを受けたのは友人の総てを諦めている発言だけではなかった。それは夏に会話をしたところどころを忘れてしまっているのである。人との接点は聡明に生きる糧になるのだがそれが及ばず招いている。別の友人は長くは生きられず服薬の影響やわたくし同様、激しい痛みから健忘があるのだが先の友人は違う。臓器は健康なのである。悔しかった。本当に悔しく思わず、拙宅で面倒を看るから帰って来い!と言った。それは物理的に難しいにせよ強ち不可能ではない。友人は気持ちが少し和らいだのか絶縁状態の身内の事を聞くと素直に話しをしてくれた。やはり変わらず離縁状態だと。ここの家族問題はわたくしが一番、接点があると言われてきた。友人の状況でこの期に及んでもか。以前、友人が倒れた事柄の背景に家族問題があり一人ブログに、母さん、あんたのせいだ。と書いた事がある。コロナ禍で外出という人の流れは困難ではあるがいつの日かお正月に一緒に過ごせるのならばわたくしは無理をしてでも友人が何度もおかわりをしてくれた料理を作るであろう。ジャネーの法則をもっても時は人に与えられた時間。本気は一瞬の出来事。大丈夫だ。