lynnosukeのブログ

愛なんてそこじゃなくて生きてるだけじゃ足りなくて

サードアイ

疑いは知の始まりである。と、デカルトは言った。先日の身の毛もよだつ話を聞きどうも腑に落ちない。亡くなった人間が物体として会話を交わし存在するというのが。例えば集団パニックの例で言えばバスの車内において窓ガラスに人影が映りパニックになったニュースがあるが人影に見えただけかもしれない。と思いきや後日談でその前日に泊まった旅館の押し入れにあった小銭を持ち帰っているという。これは駄目なのです。額縁の裏の御札の様に。パンドラは開かれた。わたくしは人と会話をしている時その方の数字が浮かぶ時がある。6と5だとすると65歳か6月5日に何かがある、6時5分ではないな。とか半年以内に怪我をする等と。これは見えているというより脳内でイメージされる。世の中には人物が数字に見えたり文字に色が付いて見える方が居る。これを色字共感覚者と呼ばれるのだが物体として見えるのは何故か?といった観点からヒントは無いだろうかと読んでいるのだがまるで解らない。そもそも視覚に入り脳内で情報処理をするのに見えるというのは先に脳が感じているのではないかと。デフォルトモードネットワークの様に何か創り上げられているのではと思う節があるが事前に知っていた情報が無いにも関わらずというのが不思議なのである。人間の細胞も発光しているので電気信号や電磁波との関係と統合失調症の犯罪者の脳までも頭を掠め考えていたら頭がパンクしそうである。なので先日、明晰夢の中で行く架空の本屋さんに行き一冊のハードカバーを手に取った。タイトルは黄土色の縦長のフォントで読み取れない。頁を開くと文字が小さく断念したのだが実在する本であるとすれば多分、多分だよ?スティーヴンキング。これも脳内によるイメージなのだが何かヒントがあるのかもしれない。