lynnosukeのブログ

愛なんてそこじゃなくて生きてるだけじゃ足りなくて

ジアゼパム

頓服として貰ったジアゼパム、痛みには効かない。ベンゾ系のレキソタンは8年前に止めている。厚生労働省のベンゾの離脱症状が弱まる最低年数を遥かに上回っている。これはやはりSSRIに戻さなければならない事を意味している。そしてジアゼパムの眠気は凄い。横臥をしている間、痛みに疲れるのかずっと眠っている。左顎の痛みは弱い日なのだが下唇の痺れと舌が小刻みに動いているので話しにくく腹部の筋肉の苦しさ全身の痛みは変わらない。不安なのだが状態を気にしてサポートグループの方からメッセージが来るのでありがたい。私を信じて下さい。と言われた。眼が痛くあまり返信出来ないのだが友人の声も聞けたので来週の通院まで耐えてみようと思う。頓服で痛みが取れないのだから激しい痛みが襲ったら今度こそはどうなってしまうのか。耐えてきたのにまたドロップアウトである。

頑張ります

減断薬の痛みにサインバルタは効かないと。そもそもの痛みがベンゾとSSRI、抗コリン作用を断薬したのが原因。変だと思っていたのがサインバルタ2週間分に対し頓服として貰ったジアゼパム20日分なのだ。わたくしはこの意味を分かってはいた。断薬から4年が経過しているので医師も分からないのである。パキシルSSRIだがジアゼパムはベンゾ系なのでこちらの方が減薬は少しは楽になるはず。これだから医師を鵜呑みに出来ないのである。薬に飼い慣らされギロチンに掛けられるだけである。断薬4年が経過しているのでジアゼパム2㎎でも楽になると思うと言われたので今日から200ccにテーパーしてみた。すぐ溶けるのね。舌下なら一発じゃん?友人との結論、バカな医師だね。わたくし達かて服薬も減断薬も長期に渡っているので薬の知識はバカではないのだよ。

修羅場が来る

話によると身体の痛みにサインバルタは効かないと。やっぱりなと思っていた。むしろ痛みがキツい。痛みには抗コリン作用が関係をしているのでパキシルに戻す必要がある。吐き気止めにガスモチンを服用していた事もある。ヤバくなってきたな。パキシルの副作用が怖いんだ。反芻をする吐き気、動悸。むしろパニックが強くなる。ヤバいわ、ほんっと。

サインバルタ2日目

11日サインバルタを夕方20㎎ 12日のお昼12時に眠気。全体的に痛みから吐き気があるので薬の副作用の吐き気ではない様な気がするが胸がつかえている苦しさと飲み込みにくい、左顎が動かしにくく顎と左肩の骨が不随意をする。雨降りのせいか肉の痛みは強く左後頭部のビリビリとした痛みが高速で頭頂部に走りシャンビリが強い。全身の痺れの更にいたるところに直径10センチぐらいの痺れが強い。痺れが強い時には異常な寒気を感じるのだが逆に灼ける様な熱感がある。夜に服薬をしないつもりでいたがこれからは痛みを和らげる為の服薬だと思い18時過ぎに服薬。21時半から眠気があり先程まで就寝。服薬2日目なのでどの様な感覚で眠気がくるのか疲れによるものなのか場合によっては日中の運転は危険かもしれないのでまた運転を自粛するのかもしれない。眠っていると痛みから解放されるので良いが夕方16時に夕食準備17時半、調理開始、18時過ぎに夕食なのでここに眠気があるといけない。まぁ、あと3時間もすると王子さんはサッカー遠征で日曜日の夜中3時頃まで帰ってこないので状態を観察するのには良いのかもしれない。気分は落ち着いている。自分の中で今回の服薬は痛みを取り受容体を正常に取り戻しゆっくりと減薬をしていけたら良いと思っている。お金がかかるね。1年ぐらいで何とかなるのなら来年の夏のバイクのイベントに行けるはずだ。

断薬四年目 振り出しに戻る

全身の痛みと吐き気の中、精神科へ行ってきた。受付を済ませ座っていると受付の方が走って来て、今日!?お一人で来られました!?はい。入院の運びになっていた。わたくしは断固拒否、前日に友人達には明日から服薬なので副作用がどうなるのかは分からないが気分はアンテナバリ3元気だから痛みや吐き気が無くなったら遊ぼうや!と、アポ入れをした。入院をしてもわたくしには高齢の祖母しかおらず、それならばハトコが沢山居る地元に帰るつもりであった。ケアマネの方との問診の際わたくしは服薬当時と現在の薬の知識や厚生労働省のデータ、シナプスや受容体、離脱と依存の話をした。パキシルを八年間も服薬するのにも疑問がある、通常四週間で離脱と依存が起きているはずで例えば厚生労働省が発表をしたSSRI離脱症状が六年で弱まるにせよ服薬年数も関係しており断薬四年目で強く出るのは好転反応なのかに疑問もあり痛みが強く出過ぎてからでは遅いのも分かっているが四年も耐えてきた。ケアマネの方は言った。僕が研修医の頃から居ますけど八年も飲んでる人を見たことがない。ほらね。それがわたくしの友人はそれ以上、服薬をしている。SNSの非公開、減薬断薬のサポートグループに入っているのも告げた。診察室に入るまで一時間ぐらい座っていたら痛みが強くなってきた。それでもいい、状況を伝えやすい。診察室にて医師はわたくしが薬に詳しいのを知り説明が簡素的であった。職歴を聞かれた際に医師が食い付いた職場があった。それは研究庁舎である。そこでわたくしは薬品や家禽の人工授精の補助をしていた。さらには歯科助手経験がある。そして研究所では植物の生育に関するデータも取っていた生命体である。医師は言った。パキシルに戻すのは良くないからサインバルタにしましょうか。サインバルタか…繊維筋痛症に処方される薬だな…やー、感情も左右されるべか…、凄まじい全身や脳、視神経の痛みに最早、選択肢は限られている、睫毛や髪の毛までも動いているのである。先月末の急な激しい腹部の筋肉痛に効かないのは分かっていましたがロキソニンを飲みました、何か対処できる物はありますか?医師は言った。痛み止めは良くないんだよねぇ。それも分かっている。血圧を下げ痛みを抑えるだけで体内の薬剤量が減ると血圧が上がり痛みが増すので対処療法でしかない。ケアマネとの対話でわたくしがそれらを知っていると判断をした結果であるのは感じた。レキソタンに似た成分のを出しましょう、ジアゼパム。出たわこれ。絶対に飲んでたまるか。ただ、痛みで気を失えない程の先の痛みには飲むしかない。会計を待っているとさらに激しい痛みが。いっそ殺してくれ。この痛みで来週も来ないとならないのか…何年かかるのだろう…これから木曜日かぁ、んで木曜日って行きつけのショップが定休日なんだよなぁ、せっかく出て来ているのに…これ、帰れるべか…この断末魔の中、一階には認知症病棟があるのだが散歩に連れられた知らないお爺ちゃんが手を挙げて挨拶をしてくれたのでわたくしも手を挙げたサービス精神。今まで痛みが無かった腕の骨にまで痛みが広がり頭は首から左に引っ張られる中やっとで帰宅、雨が降ってきた。やっぱり気圧の変化もあるのだよ。二週間分処方をしてくれたので今日から副作用や半減期に注意をしていきたい。注意をしても起きるかもしれない希死念慮はどうにもならないのだが。パキシル服薬初めの頃に抑えきれない脳内の怒りに支配をされ暴れその怒りが頭蓋骨やチャクラから突き抜けられずに首を吊った事がある。バタつきの音に気が付いた王子さんが慌てて降ろした。断薬一年頃には死のうと思い車に洋服を全部詰め込み車ごと川に落ちようとした。恋愛沙汰で悩んだ時期でもあった十一月。雨、降って地固まる。精神薬を服薬すると平均的に寿命が十四年程、短くなると言われている。わたくしの母親と同じくらいな年齢で終わるのかもしれないとずっと思って来たので生き急いで来た。先日友人に、俺は長生き出来なくても今が良ければそれでいい、俺を信じな。別の服薬中の友人には、僕と凜ちゃんは死んだ後も必ず出逢えますよ。と、言って下さった事がある。救われた。これで良かったのだと思いたいが自己責任が今も邪魔をする。

https://youtu.be/SGVRB0Z3kSg

和訳
今はまだ闇の中に居るあなたの未来に光が射しますように
もし僕等が世界中で隣人に優しくできたなら戦争は無くなり手を繋ぎ続けるでしょう
もし神様が居て人間が皆平等なら理不尽な出来事にどう説明がつくのか?
全てが救われる事を願ってやるしかない

飴の記憶

パニック発作には猛烈な吐き気を起こす中、薬の副作用でも吐き気が起こった。反芻する様な強烈な吐き気。現在では痛みに伴い吐き気がある。中学生の時、大型客船に乗りグアム島周辺まで行った事がある。当然、船酔い。この時グループごとにリーダーがおりそのリーダーに教えて貰ったのは吐き気止めには飴を舐めなさいと。わたくしはパニック全盛期の時にそれを思い出し常に飴を舐めていた。甘い物は苦手なのだがプラセボ効果を期待していた。脳の誤作動からくる吐き気なのであまり効かず結局、吐き気止めを処方された。その時、医師はわたくしにこう言った。吐き気を下に下に下げるお薬だからね。まるで胃腸に作用する話であったが後に脳に作用をし離脱と依存を起こすのが分かった。そして吐き気止めも効いてはいなかった。身体が出掛ける事も服薬も拒絶をしていたのだ。しかしながら服薬をしないと呼吸ができない、吐き気で深い呼吸もできない。それでも助手席のシートを倒し飴を舐め目をつぶっていた。発作が起き頓服を服薬したところで薬が効く頃には時間帯にして発作が治まる。出先で強烈な吐き気と同時に床が歪む感覚。先に車に戻り何度も涙した。レジ待ちで様子がおかしい時には王子さんから車に戻るよう言われフラフラと戻った。広場恐怖症もありエスカレーターへの一歩が怖く王子さんに手を引っ張ってもらい乗った事もあった。フルーツ味の飴を舐めていたが飴を舐めていた子どもの頃の記憶が残っていた。それはハマナス味の飴で美味しいとは言えなかったが小学生の時の夕方の記憶。中学高校生の頃にはチュッパチャプスが流行っており今から近いはずの飴の記憶よりハマナス味の記憶。パニック障害との文字を見た時のショックに幼心に傷ついた時のトラウマが、瘡蓋で閉じていただけの膿みが動いた。わたくしが減薬を始めたきっかけがある。見える障害、見えない障害という番組を観た時であった。車椅子の男性と同居をしている女性が飛行機に乗り苦痛に顔を歪めていた。別のシーンで人混みの会場の中で顔が赤くなりのぼせ始め音のうるささから耳栓をしだした。わたくしと全く同じ状態に心が痛んだ次の瞬間、女性は会場から走って出て行ったのだ。わたくしは驚きと同時にここで気が付いた。逃げてもいいんだと。今までは買い物をしないといけない、待っていないといけない、それが認知療法だと思っていたが真逆であった。それから気が楽になった。例えばレジ待ちで発作が起きればカゴを置いてでも外に出ればいいんだ。そして自分はパニック障害ですと公言をし倒れた時用のカードを持っていた。今でもパニックがある友人は長年、誰にも公表せず生活をしてきたがわたくしには告げてくれた。遠い空の下、それぞれが孤独にアスファルトへ倒れ込んでは立ち上がり待つのが苦手なわたくし達は寛解を待っている。今日ふと、昨年今頃に書いた文章を思い出した。花びらを口に含む。これはパニックの頃、飴を口に含んでいた時の記憶なのではないかと。いつも明晰夢の中で書いていたので現実味が無かったのだがそんな気がした。全ての記憶が戻る前に木曜日から服薬を始めるかもしれない。たまに文章でも書ければ良いのだが眼も頭も肉も骨も痛い。ずっと心の中で自分は楽になってはいけないと思ってきた。凜ちゃん、もう、楽になりな。それでいいのかもしれない。

ショートフィルム
http://lynnosuke.hatenablog.com/entry/2018/06/21/011214