lynnosukeのブログ

愛なんてそこじゃなくて生きてるだけじゃ足りなくて

罪と罰について ドストエフスキー

P453 犯罪遂行の行為は必ず病気を伴うものだ

思想 この世の中には一切の無法行為や犯罪を行う事ができる。いや、できるというのではなく完全な権利をもっている。ある種の人々が存在し法律もその人々の為に書かれたものではない。(暗示)
凡人と非凡人 凡人はつまり平凡な人間であるから服従の生活をしなければならないし法律を踏み越える権利がない。ところが非凡人は元々、非凡な人間であるからあらゆる犯罪を行い勝手に法律を踏み越える権利をもっている。
社会機構に対する力強い具身化された抗議
ヒポコンデリー 自身の身体の調子に異常に関心をもち何でもないのに病気になったと思い気に病む一種のノイローゼ。
第一の層は常に現在の支配者であり世界を維持しそれを数的に大きくします。第二の層は未来の支配者です。世界を動かしそれを目的に導きます。そして両者共に全く同じ生存権をもっています。全ての人が平等な権利をもっている。有益な目的があるのです。つまり発達と宣伝を間接的に援助するという事。人間は発達させ宣伝する義務がある。種を蒔く事ができます。その種から事実が生まれるでしょう。いずれは利益をもたらした事に気づくはず。
精神錯乱
目的を利害に対する打算もない
強盗殺人の病的な偏執狂の発作
目覚めた悔恨の作用
疫病 強烈な自信をもち自分は聡明で自分の信念は正しいと思い込む様になる。自分の判決、自分の理論、自分の道徳上の信念、信仰を絶対だと人間の本性を忘れた理性だけによる改革が人間を破滅させる。
貧は罪ならず真理か?人類全部が卑劣でないとしたら後の事は全て偏見という事だ。見せかけの恐怖に過ぎぬとすれば何の障害も有り得ない当然そういう事になるわけだ。
主人公ラスコーリニコフ 貧困と生活環境によって目的を意識せず瞬間的に行動しようとする動きが起こった。自身の仕事を辞め環境に理屈をつけ労働を行わなかったのは彼の甘さであり罪である。これは社会機構に対する力強い抗議である。しかし人間の弱さが原因かノイローゼであった。病気ではないのに病気だと思い込み疾患を起こす。この考え方が悪循環なのだ。
面白い文章がある。居酒屋での会話に「貧は罪ならずこれは真理ですよ。(中略)しかし貧乏もどん底となると…どん底というやつは罪悪ですよ…」とある。貧しさは罪ではないがどん底の貧しさは罪悪だと言っている。この部分で罪悪という言葉を使い「箒で人間社会から掃き出されてしまうんですよ。これだけ辱しめたらいい加減堪えるだろう…」と、語っている。罪悪と言葉を使っているがこれは貧は罪ではないがどん底は罰だと訴えている。どん底の貧しさとは人間がこの背景に手を加えたという事でありそのある行為の結果として受けるものである。
非凡人の論理とは非凡人は犯罪の境界を踏み越えて良いという超人主義と虚無主義をない交ぜにしたもの。しかしラスコーリニコフは非凡人ではなかったのかもしれない。何故ならば論理は正しいと思っている。その中には無神論と有神論の戦いも含まれている。
生活を完全に拒否する
もう何処へも行き場がないという事がどういう意味か?
若い者の堕落
自然は改善したり方向を変えたりできる
犯罪者自身が犯行の瞬間には意志と理性が麻痺した状態になり子どもの様な異常な無思慮に陥る。理性の曇りと意志の衰えは病気の様に人間を捉え次第に成長して犯罪遂行の間際にその極限に達する。動作とは逆に記憶に残る影像は一つの雫が飛びゆっくりと落ち弾けるさままで解る程のスローモーションである。視神経と脳の伝達が狂っている様だが記憶に残る影像がある限り正常なのかもしれない。膨大なエネルギーを使う事によって脳の修理能力が衰え犯罪遂行後には断片的にしか記憶が残らないのではないであろうか。そしてヒポコンデリーの様な感覚になるのであろう。

二十歳ぐらいに書いたものだから簡素化されています。