lynnosukeのブログ

愛なんてそこじゃなくて生きてるだけじゃ足りなくて

レスポンス 共作にはなかなか辿り着けない始末

どうも。私は太宰が大嫌いだ。暗く陰湿でネガティブだからだ。一緒にいたくもないし、本も読みたくない。だが…私も静謐な闇を望む。単に同族嫌悪なだけだ。極端な自己愛は、それが転じ自己嫌悪となる。

凛君と同じテーマで書いてみた。注釈すると、同じ単語を元に、全く別の物を書いた。いつもの私だよ。何も変わらない。全く変わらない。うんざりする程に変わらない。

巡る

「その人間、おまえがうんざりしているその人間が、永遠にくりかえしてやってくるのだ。」フリードリヒ・ニーチェの言葉だ。
そう。永遠だ。うんざりする程の永遠だ。メビウスの輪の様に捻り繋がれた、差異がある様に見せる幻想。その実態は唯、無限に続く、永遠と続く、捻じれた円環に過ぎないのだ。その人間が円環の上を歩き、捻じれ、再び繰り返しお前にやってくるのだ。

プロメテウスは、ゼウスが人間から取り上げた火を、再び人間に火を与え、人間はその火で戦争を引き起こした。ゼウスの怒りを買ったプロメテウス。磔にされ、生きながら肝臓を毎日食われる。不死のプロメテウス。翌日には再生し、また食われる。神ですら、その永遠からは抜け出す事が出来ない。神ですらだ。そう。神ですら永遠には抗う事は出来ないのだ。…しかし不死を放棄する事で、その責苦から解放されたのだ。では矮小な人間はどうだ。人間には不死の放棄はあり得ない。しかし生の放棄で、その永遠から解放されるのだ。

結核はひとつの武器です。ぼくはもう決して健康にはならないでしょう。ぼくが生きている間、どうしても必要な武器だからです。そして両者が生き続けることはできません。」フランツ・カフカの言葉だ。
結核は隔離される。会話を禁じられ、孤独の中、死神の鎌が喉元に構えている。より良く生きるための武器が死なのだ。鈍く光る死神の鎌は、甘美な切れ味なのだ。

お釈迦様こと、ブッダを以ってしても同じなのだ。「輪廻」と「解脱」とは何を意味するのか。
永遠に人間の世界に生まれ変わる「輪廻」から「解脱」する事だ。うんざりする程の生まれ変わりの永遠からの解脱、輪廻から脱出をするのだ。

死に恐怖を持つ者と、生に恐怖を持つ者は、永遠に相いれない。
互いが互いに、うんざりする人間であり、それが永遠にやってくるのだ。
意思の対立は永遠に和解する事はないのに。

あらゆる厄災が封印されたパンドラの箱パンドラの箱を開けた事で世界に厄災がばら撒かれた。
しかし、パンドラの箱に…最後に残っていたのは何か。「希望」だ。
死に恐怖を持つ者には最後の「希望」が救いとなるのだ。生きる糧として「希望」を持つのだから。
生に恐怖を持つ者には最後の「希望」が最大の厄災となるのだ。「希望」は常に人を裏切るのだから。

カフカの精神的子孫。カフカの子らは死神を欲するのだ。よりよく生きるための死を願うために。
死神とは生と死を司る神だ。生と死を分かつ神なのだ。永遠を、輪廻を、切り裂き分かつ鎌を持つ神なのだ。
そうなのだ。よりよく生きるために「今日は死ぬのにもってこいの日」なのだ。

巡りの永遠という恐怖から抜け出すには、それ以外には無いのだ。