lynnosukeのブログ

愛なんてそこじゃなくて生きてるだけじゃ足りなくて

外国

港町で生まれ育ちロシア人と朝鮮人が多かったのだが初めて目の当たりにしたのは保育園の時、保母さんの登山の友人であるパキスタンバングラデシュの方であった。日本人だけではないんだよ。と教えたく肌の色等を園児に説明した高橋先生。わたくしが卒園後もわたくしの母のお誕生日には花を持ってきてくれ母の離婚後そして死後も未だに続いているそうだ。母が亡くなり再会をし一緒にお昼から市役所でチャーメンとビールを呑んだ。そして新しく建てた家に連れられ寝たきりの高橋先生のお母様と元気なお父様にもお会いした。次は中学一年生の時、船で二週間、交歓生としグアム、サイパンテニアンに行った。英会話授業や衛生管理、ロープワークやビーチでのイカダ造り、自由時間にはビーチバレー等。現地の方との船上での交歓会。生徒だけでも500人以上も居るのに身動きが取れない程の現地の方達とセッションをしたものだ。その時の体臭と香水の匂いは濃かった。次は15歳の時、ホテルのバイト先がほぼほぼ外国の方ばかりで高校生の時は英語の成績が良かったが英語が分からないふりをし仕事をしているとレストランで差別的な言葉を言われわたくしが英語で言い返すと目を見開き驚いていた。アスホール。ぐらい言いたかった。そこは個人主義で縦社会であったので即行で辞めてきたら祖父に激怒をされた。その時期に学校の掲示板にアルバイト募集があり行った所が今のわたくしの方言ミックスの母体になっているのだが本社はアメリカで社長は日本語は話せない。翻訳機等、無い時代である。そしてスーパーでバイトをしていると声をかけてきたのがタイ人男性。わたくしが即行で辞めたホテルのG.Oであった。卒業後、庁舎に臨時職員ではあるが総務課受付窓口、総務課は底辺だと言う方もおるが一応100人以上はおり研究機構とし成り立っているの窓口なので全国区で見たらかなりな人数に当たるのと研究者の関係で海外とも繋がりがあり何か外来種や新たなヴィールスの時にテレビ出演する方達は系列である。後にわたくしも研究庁舎に辞令があった。海外の研究職員からの外線や視察、JICAの方達が来ると公用語は何か解らず係長は嘆いたものだがその頃わたくしは少しだけスペイン語を話せていた。最も悩んだのは食事である。再編整備でインターネットも無線LANにするかどうかの会議でみんなが携帯電話を持っている時代ではないのである。所謂ハラールの方達が来る。そこまで気に取られていない寮母さんは、トンカツにしてやろうと思って肉なら食べるべ!えっ…?ヤバくない…寮母さんは何も聞いていないというか係長よ!?わたくしの一存では言えないなりに寮母さんの所でコーヒーブレイクをしていたわたくしは即行で総務課に戻って係長に言うから寮母さんから内線で食事について聞いて!と言いわたくしが場内をまるでドリフトをするかの如く総務課に行くと、係長が神妙な顔で受話器を置き怒られるのかと思ったら苦笑いをしながらわたくしに、寮母さんからの内線で、今!りんが集金に来たからコーヒー出すから飲んで休んでいけ!って言ったんだけど何!夕方、来る人達!肉!駄目だってか!?りんが言ってたぞ!係長!あんたどうなのさ!?と怒られたらしい。笑。あれから20年以上。もしムハンマド氏がわたくしをチュウと抱きしめるとしたら戒律はどうなっているのか。FaceTimeでは落ち着いていたが。